ライオンの咆哮

iPhoneのApp Storeが登場してから、将来的にはMacもそうなるに違いないと思っていたけれど、ついに来てしまったMac App Store。

懸念を抱いた当初は不安で怖かっただけだが、恐怖と期待の半々が今の心境だ。

課金システムや販促方法などあまり考えなくて済むので気軽に有料化に踏み切れ 、今まで無料で使えていた優秀なアプリが無料でなくなるのではないかという恐怖。

システムバンドルされるMac App Storeから気軽にソフトをインストールやアップデートができるので、今までフリーウェアに見向きもしなかった層がその素晴らしさに気付いて使ってくれるのではないか、集約的にソフトが陳列されることにより競争原理が働き高いソフトが安く手に入るようになるのではないかという期待。

きっとMac App Store登場当初は違和感を感じると思う。

ソフトというのは無料で当たり前という人は(僕も含めて)とても多い。

しかし作ったものに対して何らかの対価が払われるのは、その創作物への尊敬を表すという面において絶対的に正しい。

だからこの流れは止められない。

一ユーザとしては、ソフト利用者と作成者が共に幸せになれる関係が構築される流れになればいいなと思う。

近年のオンラインウェアを取り巻く環境の傾向と所感

MacPeopleの歴史の羅針盤に掲載した原稿の元テキストを掲載します。

もう書店には並んでいないし、僕の文章目当てでバックナンバーを買ってくれる人はたぶんいないであろうから問題ないと思います。

インターネットには数限りないオンラインウェアが公開されていて、Macユーザの生活を便利にしてくれたり、楽しいものにしてくれている。

それを当たり前のことのように思って利用しているけれど、実はとても凄いことだ。

僕らユーザがたくさんのオンラインウェアをなぜ使えるかと言うと、オンラインウェア作者さんの多くが金銭的見返りを求めず、自分の休みを潰してまでオンラインウェアを作り、自分のサイト上で公開しているからだ。

なんて素晴しいことだろう!

オンラインウェアをすぐに作れるような開発環境をAppleが無償で提供しているという前提はありつつも、便利なものを作ってみんなに使ってもらいたいというオンラインウェア作者さんたちの熱意がなければ今の状況はない。

もっとみんなにオンラインウェアの存在を知ってもらいたい、引いてはオンラインウェア作者さんがもっと注目されてもらいたい。

そういった思いを抱いてブログを始めたのが約5年前。

それからMacを取り巻く環境は劇的に変わりました。

OSのバージョンが進むにつれシステムは安定して便利になり、CPUのPowerPCからIntelへの移行でWindowsとの併用もできるようになり、iPhoneやiPadの大ヒットでMacってどういうものなんだろうと興味を持つ人が増えました。

それに伴い、Appleの情報やオンラインウェアを紹介するブログが驚くくらいどんどん出来ました。

僕は2〜3年もブログを続けていれば紹介するオンラインウェアも少なくなり、書くことがなくなってしまうのではないか思っていましたが、それは大変な誤算で今や情報を追っかけるのが精一杯でどの情報からブログに書こうかと悩むくらいです。

これだけMacが注目されるようになった理由は、Appleが魅力的な製品をたくさんリリースしているというのが一番大きな原因ですが、それと同じくらい「Macにもたくさんのオンラインウェアがあって、色んなことが出来るよ!」と胸を張って周りの人に勧めることが出来るようになったのが大きいと思います。

ユーザ数が増え、その中からオンラインウェア作者になろうと思う人が現れ、さらにMacが便利になり、またユーザ数が増加するという良い循環に今の時代は入っているのではないでしょうか。

その中で僕はこれからも便利なオンラインウェアを皆さんに知ってもらうためにブログを続けたい。

わくわくするようなオンラインウェアと出会いたい、その感動を共有したい。

そんな思いを持ちながら、これからもMacと付き合っていきたいです。

善意の圧力

最近Twitterで募金が流行っている気がする。

クリックしたり、拡散したりすると〜に一円募金しますというやつだ。

あれを見るたびにどことなく居心地が悪い。

「僕たちは善行をしているけれどあなたは?」

的な圧力を感じる。

僕が一方的にそう感じるだけなのだけれど。

なんだろう…駅前で募金を募る子供を見るような感覚かな。

もちろん善意をお金に変えて大変な目に遭われた方に渡すのは疑いようもなく素晴らしいことだ。

それに違和感を感じるのではなく、思想がじわじわと拡散していく様が観測できて怖い。

善意というのは強力な浸透力を持ち、他の思想を圧倒する。

他の考えより表面化しやすい。

僕には理解できない人の群れが、自分の善意を信じて自分の得にもならない情報を嬉々として伝播している様が怖い。

人はそれぞれ違う。

違うはずなのに、一瞬の内にある思想に染まっているように見える時がある。

書いてる内に気付いたけれど、善意がどうのこうのはあまり関係なくて、他人が自分ではないのが怖いだけかも知れない。

笑いのセンス

笑うという感覚は共通の下地が必要だ。

例えば仲間意識、共通の趣味・話題、学問、思想その他諸々。

面白いこと単体では笑うという感覚までは行き着かない。

分かってくれる、分かってやれる誰かが必要だ。

漫才やコントなどは笑うことへの絶対条件、情報もしくは空気の共有を行うために前振りがあるのだし、一発ギャグなどもその場の雰囲気、それ以前の流れ、その一発ギャグがたくさんの人々に笑われてきたという過去認識、ギャグを言った人そのものへの共感などがないと笑えない。

突飛なことだけでは驚き、不快しか感じないけれど、それから前後の文脈の繋がりを発見して安堵し、初めて笑うという感覚が呼び起こされる。

安心と似た感覚だろうか。

なので身近な人に笑って貰おうとする場合、まずその人に興味を持ち、ある程度その人の世界観を自分の物にすることが近道だと思う。

Appleのやりたいこと

iTunes Storeで音楽を販売したり、App Storeでアプリを販売したり、iBooksで書籍を販売したり、Appleはコンテンツ事業に力を入れている。

というかコンテンツ配信の大本を押えたいんだろうなと思った。

なのでパソコンであるMacよりも、コンテンツビューアとしてのiPadに注力していくのだろう。

パソコンを使う大部分の人はYouTubeでアニメを見たり、漫画をダウンロードして読んだり、ブログを読んだり、メディアコンテンツビューアとしか使っていない。

パソコンというものは何でもできるというのが売りだったけれど、自分で調べないとなにもできない。

ライトユーザにとっては高い箱、もしくは動画閲覧専用機。

ならばそれに特化したiPadが今後の主流になっていくのは明らか。

作る側としても売って終わりではなく、継続的にユーザにお金を落として貰えるのでおいしい商売だ。

ただiPadはポジションとして微妙かもしれない。

iPadは今までのパソコンが出来てきたことが出来ないパソコンだ。

Flashが見れない、ゲームができない、エッチなサイトが見れない、ファイル共有ができない。

Macを使っている人ならば上記のことはパソコンの本質ではない、取るに足らないことだと直感できるだろうけれど、一般的には拒否反応があるかもしれない。

まぁ全ての人がMacを使う必要がないように、iPadも全てのパソコンに置き換わる必要もない。

というかパソコンという区分からは逸脱してきている。

ただコンテンツが報われる枠組みをがっちり作ってあるiPhoneやiPadは決してなくなることはないだろうと思う。

しつけの重要さ

実は一週間くらい前から犬を飼い始めている。

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今まで結構たくさんの種類のペットを飼ってきたけれど、犬は初めて。

まだ予防接種を済ませてなくて体を洗えないので獣臭いし、そこかしこにうんち、おしっこはするし、寂しいと鳴きまくる。

結構厄介な存在なのだけれど、やっぱり可愛い。

途方もなく可愛い。

なにが可愛いって褒めた時に、本当にうれしそうに尻尾を振るのがわかりやすくていい。

ペットというのは人間の一方的な願望によって一緒に暮らすことを強要されている生物なのだから、できるだけペットの意思を尊重して、生活を強要しないで自然な状態で過ごせるようにしよう。

しつけなど人間のエゴでしかない。

そう思ってきた。

しかしどうやらその考えは違っていたのかも知れないと思い初めている。

放任主義で甘やかして育てたとしても、今度は僕がペットに振り回されることになり、ストレスが溜まり気持ち良く一緒に暮すことはできない。

ペットのことを良く理解し、その性質に沿って自然と人間と暮らせるように導いてあげる。

すでに僕たちと暮らすことは運命付けられているのだから、一緒に暮らすことに後ろめたく感じるのは不毛なことだ。

しつけというものは相手を押さえつけて自分のやって欲しいことを強要する行為ではなく、いかに相手を褒めて相手が望むべきことを実現するか、手助けしてあげる行為なのだなと実際にしつけをしてみてわかった。

今後お互い健康でいれば十年以上の付き合いになる。

僕は君と出会えて幸せだけれど、君からもそう思ってもらえるように頑張ろう。

みんなもそう思うよねということの気持ち悪さ

2chの面白いスレッドを集めたブログ、いわゆるコピペブログをよく見るのだが、その中でどうしても好きになれない傾向の記事がある。

みんなに迷惑をかけていた人物を公衆の面前でやり込める、胸がすっきりしたというやつだ。

あれはどうも気に食わない奴を、生き方が醜い、迷惑な人物だと決めつけて迫害しているようにしか思えないのだ。

確かに人に迷惑をかける人物は僕も嫌いだし、消えてしかるべきだ。

だけれども、彼若しくは彼女が絶対的な悪だと決め付ける権利が誰にあるというのだ。

ある例をあげれば、満員電車で他の乗客に迷惑をかけていた人物を、OLと老人がやりこめたという話を読んだ。

醜い自分勝手な人とまっすぐな心を持つ人という比較が、あからさま過ぎて、狙い過ぎだろうと思った。

こういった話は正邪の対比なはずなのに、美醜に置き換えられている例が非常に多い。

あまつさえ、みんな言わなかったけれど自分と同じ気持ちだったのだろう、という自分勝手な記述もあった。

そのみんなに石もて追われる人のことを考えたことがないのか?

多数派に属している安心感からでる、思考の停止、傲慢さ。

正義に酔いしれるあまりに客観的な視点が欠けて、ナルシシズムが顕著で気持ち悪い。

システムという箱

人間はシステムがなければ生きられない。

国家であったり、会社であったり、家族であったり、いろいろな形態がある。

仕組み、箱。

どの箱に入るかで人のできることは決まり、箱の中身なんて入れ替えが効く程度ものでしかない。

箱を利用してとてつもなくデカいことはできるけれど、それは中身が凄いからじゃない。

飛行機に乗って遠くまで行けたとしても、その人の能力ではない。

自分の入りやすい箱を自分で作れる人もたまにいるが、その箱を作る行為には箱を必要とする。

人間の体でさえも箱の一形態にしか過ぎない。

どこまでも自我が膨らみ、どこまでも矮小な存在。

そして世界に見放された

僕は小学校低学年くらいの時まで、ちょっとおかしなマンションに住んでいた。

まず、色からしておかしい。

全体的に緑がかった肌色で屋根が青と白のボーダーだった。

マンション内の通路なのに通路に沿って土があった。

そこでひまわりとかスイカの種とか植えたっけ。

枯れたけど。

階段下のスペースが外だった。

出入口というわけではないのに、砂利そのままで厳然たる外だった。

そのスペースはマンションのコンクリ基礎もないので、当然マンションからみたら一段低い半地下のようになっており、子供心に秘密基地のようでわくわくした。

ベランダ側には、利用されていない空き地があり、玄関側にもかなり大きい駐車場がある。

さらにその向こうは畑で、その畑をこえるとやっと道路が見える。

空き地と駐車場に挟まれた浮島のような立地のマンションだった。

当時はセキュリティ的なものがあまり考慮されなかった時代なので、駐車場とマンションの通路部分を隔てるものは金網フェンスだけ。

そのフェンスも子供達に破られて穴だらけだった。

保育園の時の僕は三輪車に夢中だった。

一階の通路、端から端まで僕の三輪車サーキットのコースだった。

いつも母は仕事で家を空けていて、家には姉と兄だけ。

姉と兄も当時は小学生なので、保育園児を相手するのは面倒だったのだろう。

僕はマンションの廊下で一人でよく遊んでいた。

それでも僕は暇ではなかった。

何秒で端から端まで行けるかとか、階段下の奈落に向けてチキンレースをしたり、通路の土部分にわざと脱輪させたりしてスリルを楽しんだ。

でもたまに、ぞくりと不安になる。

まだ、夕暮れというには早くて、固定された世界。

結構開け放たれて人間の匂いがする空間なのに僕一人。

玄関を隔てた空間にはちゃんと人がいるはずなのに、こんなにも一人で。

もしかしたら僕が見て認識していない間は存在すらしていないかもしれず。

僕がただいまーと玄関を開けた瞬間それまで別のものでいたなにかが姉や兄のふりをしているではないかと、酷く心配になる。

あのフェンス越しに見える道路にたまに通る車も、誰かが車だけ変えて何度も同じところを回っているだけなのではないか。

僕は世界に一人だけで、神様に騙されているのではないか。

世界に違和感を感じた。

大人になった今もあの日の感触を忘れることはできない。

外側と中身

うさぎを飼っている。

ミニウサギという名の雑種で、名前に似わず微妙にでかい。

毛並みもまだらで、愛想がない。

でも愛おしい。

外出する時は必ず小屋の前に寄り、名前を呼び、顔を見て、何か食べさせる。

うさぎの毛ってあんな気持ちがいいものなんだね。

あまり抱かせてくれないけれど、毛を撫でているだけで幸せだ。

猫座りしてじっとしていたり、足を崩してうとうとと眠そうにしていたり、元気にぴょんぴょん跳ね回っていたりする。

いわゆるペットは僕より先に死ぬ。

僕のうさぎもいつかは死んでしまう。

もし死んだら毛皮が欲しいな、と思った。

ペットの毛皮が欲しいなんて歪んだ欲求なのだろうか。

その毛皮を見て、触って、うさぎの温もりを忘れたくないだけなんだけど。

例えば死んだ夫の遺品を肌身離さずもっているのはおかしくない。

でも死んだ夫の歯を肌身離さずもっているのは、一般的にはおかしい。

僕もその行為には違和感を感じるけど、まぁ個人の自由だよね。

でもうさぎの毛皮を手に入れたところで、それはうさぎの毛皮に過ぎず。

うさぎではなく、うさぎの毛皮を愛していたと、記憶が改竄されそうで嫌だ。

しかし生きているものを愛して、死んだら愛してはいけないなんて誰かが決めたルール。