恋をしたことがない僕へ

こんなタイトルで書くと君は

「僕が恋をしたことがないと何故断定できる!」

と憤慨するかもしれないけれど、残念ながら君は恋をしたことがない。

少なくともある女性と出会う前に抱いているそれは好意でこそあって愛ではない。

それを知って僕も驚いた。

君はもう少しするとある女性と出会う。

彼女の顔はとても綺麗で、目がどの宝石よりも綺麗で、口や鼻が人形みたいに小さくて、体もエッチくて、世界で一番可愛いと主観的にも思うし客観的にもそうだと思う。

けれどさっき書いた色々な要素ではなく、彼女の声や表情に感情を素直に表現できるところに君は惚れる。

奇跡的にも彼女も君を好きらしくて二人は恋をする。

信じられるかい?

自分以上に大切な人ができるなんて。

君は人を好きになっても自分と同じレベルまでしか相手を大切に思える訳がないと信じているだろう。

それは間違いだ。

彼女に悲しいことが起こると彼女の気持ちを慮って泣いてしまうし、彼女が怪我や病気になったら変わってあげたいと思う。

芯から、心の底から。

信じられるかい?

彼女と喧嘩をして半日喋れなくなっただけで心に穴が空いた気がして、その状況が続くのが怖くて怖くて泣きながら謝ってしまうことを。

これまで物理的な要因でしか泣いたことがなくプライドが異常に高い君が、しゃべりたいというただそれだけの理由で泣いてしまうんだ。

信じられるかい?

毎日、何時間も彼女と喋るのを。

それでも足りなくて休みの前日は朝まで喋ることを。

毎日飽きもせず楽しく喋って、しゃべればしゃべるほど好きになっていくのをきっと信じられないだろうね。

彼女のいない日常は悲しい。

寂しい。

一度手に入れた幸せをもう手放すことはできない。

これ以後生きていても彼女の人生に関われないならば死んでしまいたい。

愛する人に愛していることをわかってもらえて一緒に生きたい。

僕はこれから過去の君に誇れるように、未来の僕に責められないように彼女のことを愛していこうと思うよ。

ライオンの咆哮

iPhoneのApp Storeが登場してから、将来的にはMacもそうなるに違いないと思っていたけれど、ついに来てしまったMac App Store。

懸念を抱いた当初は不安で怖かっただけだが、恐怖と期待の半々が今の心境だ。

課金システムや販促方法などあまり考えなくて済むので気軽に有料化に踏み切れ 、今まで無料で使えていた優秀なアプリが無料でなくなるのではないかという恐怖。

システムバンドルされるMac App Storeから気軽にソフトをインストールやアップデートができるので、今までフリーウェアに見向きもしなかった層がその素晴らしさに気付いて使ってくれるのではないか、集約的にソフトが陳列されることにより競争原理が働き高いソフトが安く手に入るようになるのではないかという期待。

きっとMac App Store登場当初は違和感を感じると思う。

ソフトというのは無料で当たり前という人は(僕も含めて)とても多い。

しかし作ったものに対して何らかの対価が払われるのは、その創作物への尊敬を表すという面において絶対的に正しい。

だからこの流れは止められない。

一ユーザとしては、ソフト利用者と作成者が共に幸せになれる関係が構築される流れになればいいなと思う。

近年のオンラインウェアを取り巻く環境の傾向と所感

MacPeopleの歴史の羅針盤に掲載した原稿の元テキストを掲載します。

もう書店には並んでいないし、僕の文章目当てでバックナンバーを買ってくれる人はたぶんいないであろうから問題ないと思います。

インターネットには数限りないオンラインウェアが公開されていて、Macユーザの生活を便利にしてくれたり、楽しいものにしてくれている。

それを当たり前のことのように思って利用しているけれど、実はとても凄いことだ。

僕らユーザがたくさんのオンラインウェアをなぜ使えるかと言うと、オンラインウェア作者さんの多くが金銭的見返りを求めず、自分の休みを潰してまでオンラインウェアを作り、自分のサイト上で公開しているからだ。

なんて素晴しいことだろう!

オンラインウェアをすぐに作れるような開発環境をAppleが無償で提供しているという前提はありつつも、便利なものを作ってみんなに使ってもらいたいというオンラインウェア作者さんたちの熱意がなければ今の状況はない。

もっとみんなにオンラインウェアの存在を知ってもらいたい、引いてはオンラインウェア作者さんがもっと注目されてもらいたい。

そういった思いを抱いてブログを始めたのが約5年前。

それからMacを取り巻く環境は劇的に変わりました。

OSのバージョンが進むにつれシステムは安定して便利になり、CPUのPowerPCからIntelへの移行でWindowsとの併用もできるようになり、iPhoneやiPadの大ヒットでMacってどういうものなんだろうと興味を持つ人が増えました。

それに伴い、Appleの情報やオンラインウェアを紹介するブログが驚くくらいどんどん出来ました。

僕は2〜3年もブログを続けていれば紹介するオンラインウェアも少なくなり、書くことがなくなってしまうのではないか思っていましたが、それは大変な誤算で今や情報を追っかけるのが精一杯でどの情報からブログに書こうかと悩むくらいです。

これだけMacが注目されるようになった理由は、Appleが魅力的な製品をたくさんリリースしているというのが一番大きな原因ですが、それと同じくらい「Macにもたくさんのオンラインウェアがあって、色んなことが出来るよ!」と胸を張って周りの人に勧めることが出来るようになったのが大きいと思います。

ユーザ数が増え、その中からオンラインウェア作者になろうと思う人が現れ、さらにMacが便利になり、またユーザ数が増加するという良い循環に今の時代は入っているのではないでしょうか。

その中で僕はこれからも便利なオンラインウェアを皆さんに知ってもらうためにブログを続けたい。

わくわくするようなオンラインウェアと出会いたい、その感動を共有したい。

そんな思いを持ちながら、これからもMacと付き合っていきたいです。

悪口の効用

悪口とは特定の個人を貶め嘲笑すること。

悪口を聞かされるのも言うのも嫌いなので極力言わないようにしているけれど、最近「ひょっとしたら悪口というのは人間関係を円滑にする機能があるのかもしれない」と思い始めた。

いわゆる友達が多い人というのは、結構悪口を言う。

共通の友人や知人を論い、楽しげに悪口を言う。

敵をグループ外に作り、内部は結託する。

それをすることにより、一体感や共感を得られる。

それは戦争中のプロパガンダなどに使われる手段でとても効果的だ。

嫌いな人に目をつぶり耐え忍んで、聖人ぶっていても他人の共感は得られない。

僕は良く何を考えているかわからないと言われるが、それも悪意を巧妙に隠しているせいなのだろうか。

他人に悪感情を抱く人には僕のような存在は、自分の感情が否定された気分になりいい気分はしないであろう。

だが、知り合い同士の共感を得られるのと引き換えに他人を貶め、自分たちの輪の中で安住するのは、何かが決定的におかしい気がする。

悪口が蔓延する場は僕にはどうにも居心地が悪いのだ。

他人と適度に共感しあって悪口を言うくらいならば、一人でいたほうがいい。

善意の圧力

最近Twitterで募金が流行っている気がする。

クリックしたり、拡散したりすると〜に一円募金しますというやつだ。

あれを見るたびにどことなく居心地が悪い。

「僕たちは善行をしているけれどあなたは?」

的な圧力を感じる。

僕が一方的にそう感じるだけなのだけれど。

なんだろう…駅前で募金を募る子供を見るような感覚かな。

もちろん善意をお金に変えて大変な目に遭われた方に渡すのは疑いようもなく素晴らしいことだ。

それに違和感を感じるのではなく、思想がじわじわと拡散していく様が観測できて怖い。

善意というのは強力な浸透力を持ち、他の思想を圧倒する。

他の考えより表面化しやすい。

僕には理解できない人の群れが、自分の善意を信じて自分の得にもならない情報を嬉々として伝播している様が怖い。

人はそれぞれ違う。

違うはずなのに、一瞬の内にある思想に染まっているように見える時がある。

書いてる内に気付いたけれど、善意がどうのこうのはあまり関係なくて、他人が自分ではないのが怖いだけかも知れない。

諦めの表情

ふと思いだしたことがある。

あれはゴールデンウィークだったか、ドライブがてら家族でちょっとした公園にでかけた。

郊外の広い公園でそこ自体は楽しかったのだけれど帰り際、晩御飯のおかずを買って行こうと普段は寄らないスーパーに寄り、普段は買わない宝くじを母は買った。

普段は本当に宝くじ売り場なんかに近付かないし、買う人を軽蔑してさえいる母なのだけれど。

外出して高揚していたのだろう。

惜しげもなく何千円分も買った。

「当たるかしら、うふふ」と嬉しげに言っていた。

外れた。

確立から言えば当然なのだけれど。

その当然の結果、自分は特別な人間ではないという結果をまざまざと見せつけられて。

それこそ僕らには「外れて当然だよね、当たる訳ないよね」と言っていたけれど。

自分自身にもそう言い聞かせていたけれども。

言い訳じみていた。

あからさまな落胆は見せなかったけれど、表情に感情が表れなくなり、でもどこか寂しげで。

車内に重い空気が立ち籠めた。

この人に少しでも親孝行をして、僕を生んでくれてありがとうと伝えたいとハンドルを握りながら思った。

笑いのセンス

笑うという感覚は共通の下地が必要だ。

例えば仲間意識、共通の趣味・話題、学問、思想その他諸々。

面白いこと単体では笑うという感覚までは行き着かない。

分かってくれる、分かってやれる誰かが必要だ。

漫才やコントなどは笑うことへの絶対条件、情報もしくは空気の共有を行うために前振りがあるのだし、一発ギャグなどもその場の雰囲気、それ以前の流れ、その一発ギャグがたくさんの人々に笑われてきたという過去認識、ギャグを言った人そのものへの共感などがないと笑えない。

突飛なことだけでは驚き、不快しか感じないけれど、それから前後の文脈の繋がりを発見して安堵し、初めて笑うという感覚が呼び起こされる。

安心と似た感覚だろうか。

なので身近な人に笑って貰おうとする場合、まずその人に興味を持ち、ある程度その人の世界観を自分の物にすることが近道だと思う。

人を愛すること

人を愛したことがなかったかも知れない。

人を好きになったことはある。

この人と一緒にいると楽しいなぁーとか、綺麗だなぁー可愛いなぁーとか。

嫉妬とか。

そういった類いの感情は持ち合わせてきた。

そういった感情の強弱で自分の心を計ってきた。

強く相手のことが好きでもどこかもっと好きな人が現れるんじゃないか、本当にこの人が好きなのだろうかと、常に自問して安定した心理状態ではなかった。

その癖どこか冷静で自分と相手の置かれた状況を客観的に見て、イケ好かない恋の駆け引きなんてのもした。

そんな自分はとても嫌いだ。

もっと見境なく、分別なく、みっともなく、愛したい。

愛してくれることを請い、愛してくれていないんじゃないかと絶望し、愛してくれていたと引きちぎれんばかりに尻尾を振りたい。

ありのままの自分を愛してくれて、ありのままの自分を見せてもらいたい。

その人の人生に関わりたい、関わってもらいたい。

恋は結局は別の人間という諦めの元に行なわれる。

迷惑をかけたくないとか、情けない部分を見られたくないとか、そうありたい自分を見せ合う。

人と付き合う上でそれはとても健全な姿勢だけれど、どこか寂しい。

すべてありのままに曝け出して、幻滅したり、嫌悪したり、理解できなかったり、お互いに相容れないところを発見しても、離れられない。

傷付けあっても一緒にいたい。

そんな関係に憧れる。

困ったな

iPhoneからしかこのブログ閲覧できなくなってしまった。

ブラウザでアクセスしても空ファイルが出力されるみたい。

テンプレートを変更しまくっている時に変になったので、該当テンプレートを削除すれば直るかな?

でもどのテンプレートか忘れた。

データベースをバックアップしてインストールし直すか迷うどころ。

いかんせん面倒くさい。

Appleのやりたいこと

iTunes Storeで音楽を販売したり、App Storeでアプリを販売したり、iBooksで書籍を販売したり、Appleはコンテンツ事業に力を入れている。

というかコンテンツ配信の大本を押えたいんだろうなと思った。

なのでパソコンであるMacよりも、コンテンツビューアとしてのiPadに注力していくのだろう。

パソコンを使う大部分の人はYouTubeでアニメを見たり、漫画をダウンロードして読んだり、ブログを読んだり、メディアコンテンツビューアとしか使っていない。

パソコンというものは何でもできるというのが売りだったけれど、自分で調べないとなにもできない。

ライトユーザにとっては高い箱、もしくは動画閲覧専用機。

ならばそれに特化したiPadが今後の主流になっていくのは明らか。

作る側としても売って終わりではなく、継続的にユーザにお金を落として貰えるのでおいしい商売だ。

ただiPadはポジションとして微妙かもしれない。

iPadは今までのパソコンが出来てきたことが出来ないパソコンだ。

Flashが見れない、ゲームができない、エッチなサイトが見れない、ファイル共有ができない。

Macを使っている人ならば上記のことはパソコンの本質ではない、取るに足らないことだと直感できるだろうけれど、一般的には拒否反応があるかもしれない。

まぁ全ての人がMacを使う必要がないように、iPadも全てのパソコンに置き換わる必要もない。

というかパソコンという区分からは逸脱してきている。

ただコンテンツが報われる枠組みをがっちり作ってあるiPhoneやiPadは決してなくなることはないだろうと思う。